歴史上の主要な貿易戦争と市場への影響 01
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歴史上の主要な貿易戦争と市場への影響 01
歴史上の4つの貿易戦争について、背景や経緯、発動された関税措置と報復措置、当時の主要株価指数S&P500指数およびダウ平均株価の動き、当事国通貨の為替レート変動、さらに国際的・国内的反応を順にまとめます。
1. 1930年スムート・ホーリー関税法Smoot-Hawley Tariff Act
背景:
世界恐慌1929年の直後、アメリカ国内の産業を保護する目的で制定。
内容:
2万品目以上に関税を大幅に引き上げ。
結果:
他国も報復関税を課し、国際貿易が急減。世界恐慌をさらに深刻化させたと広く考えられている。
影響:
とくに農産物輸出国カナダ、フランス、ドイツなどが強く反発。
背景と経緯:
1929年の世界恐慌の始まりで景気が悪化する中、米国フーヴァー政権は国内農業保護などを目的に保護貿易政策を強めました。上院・下院で可決された関税引き上げ法案は、1930年6月17日にフーヴァー大統領が署名し「スムート・ホーリー関税法」1930年関税法として成立しました。この法律により約2万品目もの輸入品に平均約50%もの高関税が課され、米国の関税水準は1828年以来の歴史的高水準に達しました。同法案には経済学者約1,000人が反対請願を行うなど反対意見も多く、フーヴァー大統領自身も「不合理だ」と批判しつつ署名せざるを得なかったと伝えられます。
関税措置と報復:
スムート・ホーリー法は当初農産品保護が目的でしたが、実際には工業製品を含む幅広い品目が対象となりました。具体的には約890品目で関税率引き上げが行われ、米国の平均関税率はそれまでの約33%から40%超に上昇しました。これに対し、25か国以上の米国貿易相手国が相次いで報復関税を導入し、世界的な関税報復合戦が発生しました。例えばカナダや欧州諸国は米国製品への関税を上げ、各国間の貿易は急減しました。その結果、1929年から1934年にかけて国際貿易額は実に66%も減少し、米国の輸出入も大幅に縮小しました。関税引き上げによる貿易萎縮が各国経済に追い打ちをかけ、世界恐慌大恐慌は一層深刻化・長期化したとされています。アメリカ国内でも輸出市場の縮小で工業生産が落ち込み、1930年代前半の実質GDPは毎年大幅なマイナス成長となりました1930年 -8.5%、1931年 -6.4%、1932年 -12.9%。
株式市場への影響:
1929年秋の株価大暴落ウォール街大暴落に続き、関税戦争による世界貿易縮小も投資家心理を冷やしました。ダウ平均株価は1929年9月に最高値381ドルを付けましたが、その後下降を続け、関税法成立後の1930年後半からさらに急落しました。最終的に1932年7月8日にはダウ平均が41ドルまで下落し、ピークから約89%減という壊滅的水準に達しました。株価の暴落は企業利益の悪化と金融不安を招き、投資や消費の縮小につながりました。S&P500指数当時は標準普及株指数は現在の500種指数とは異なるものの、同様に大幅下落しています。株式市場の崩壊により多くの投資家が打撃を受け、連鎖的に銀行破綻や失業増大を引き起こし、大恐慌の深刻化要因の一つとなりました。
為替市場での動き:
当時は主要国が金本位制を維持していましたが、貿易戦争の激化と世界恐慌の進行で各国は次第に金本位制から離脱し自国通貨を切り下げる「通貨戦争競争的通貨切り下げ」に突入しました。米国が高関税で市場を閉ざす中、まず英国が1931年9月に金本位制を放棄し、ポンドは対米ドルで約30%の切り下げ価値下落となりました。続いて米国も1933年に金本位制を離脱し、F・ルーズベルト大統領が金保有を禁止した上で金の公定価格を1オンス=20.67ドルから35ドルに引き上げ、米ドルを約40%実質切り下げました。このように各国が次々と通貨を切り下げて輸出競争力の回復を図る「乞食的隣人政策」を取った結果、為替相場は大きく変動しました。例えばイギリスのポンドは金本位制離脱後に対ドルで約1ポンド=4.86ドルから3.50ドル前後に下落し約3割のポンド安、米ドルも金に対し価値を低下させました。こうした通貨安競争は貿易戦争の副次的産物であり、各国の保護主義政策が通貨面にも波及したことを示しています。
国際的・国内的反応:
スムート・ホーリー法に対しては、当時から国内外で強い批判がありました。米国内では前述のとおり経済学者や実業家らが反対し、上院公式サイトでも「議会史上最も破滅的な法律の一つ」と評されています。国際的には各国政府が報復関税で応酬しただけでなく、経済協調の機運も高まりました。1933年にはロンドンで世界経済会議が開かれ自由貿易復帰が論じられましたが、各国の利害が対立して十分な成果は得られませんでした。その後米国では1932年の大統領選でフーヴァーが敗北し、就任したF・ルーズベルト大統領は1934年に関税引下げ交渉権限を与える互恵通商協定法を成立させ、保護主義から国際協調路線へ大きく転換しました。この流れは戦後のGATTやWTO体制につながっていきます。総じて、スムート・ホーリー関税戦争は世界貿易を激減させ大恐慌を悪化させた反面、各国に保護貿易の危険性を痛感させ、以降の貿易自由化への教訓となりました。
主要指標の変動1929~1933年:
ダウ平均株価
381ドル1929年9月最高値→ 41ドル1932年7月最安値※約-89%の下落
世界貿易額
530億ドル1929年1月→ 180億ドル1933年1月※約-66%
英ポンド対米ドル
1ポンド=約4.86ドル金本位制下→ 約3.20〜3.50ドル1931年離脱後※約30%のポンド安
米ドルの金平価
1オンス=20.67ドル1933年まで→ 35ドル1934年1月※米ドル約40%切り下げ